七五三に関連する昔話を紹介

七五三に関連する昔話を紹介

祝・七五三

七五三は名前の通り、子どもが3歳、5歳、7歳の時にする行事ですが、どこで何をするのかといったことは何となく知られていても、なぜするのか、どういった意味があるのかといった点については、いまいちピンと来ない人も多いかもしれません。この記事では、そうした七五三にいまいち馴染みがないという方々に向けて、七五三にまつわるいくつかのエピソードを紹介します。

11月15日にまつわる逸話

葵の御紋

少しでも興味のある方ならば、七五三は基本的に11月15日に行われるものということはご存知かもしれません。しかしその理由について聞かれると、口ごもってしまう人もいるのではないでしょうか。そうなってしまうのも実は仕方のないことで、11月15日という決まりについては、はっきりとした理由はわかっていないのです。

七五三の由来については諸説ありますが、最も有力とされているのが江戸時代に徳川家で行われたものが元になっているという説です。現在の七五三で行われている儀式一つ一つについてはさらに遡って平安時代頃に起源があるとされていますが、現在の行事の原形になっているのが、江戸時代の徳川家で行われたものだというのです。そこから関東を中心に商家、庶民などにも広がり、明治頃に総称して「七五三」と呼ぶ形も整って、全国に広がっていったと言われています。

綱吉の息子が最初の七五三?

徳川綱吉のイメージ

さて、この徳川家による儀式が最初に行われたのが、館林藩主であった徳川徳光という男の子に対してのものでした。藩主で男の子?と思われたかもしれませんが、この徳光は第5代将軍、綱吉の長男で、なんと2歳で館林藩主となっています。

徳川綱吉と言えば「生類憐みの令」などで知られていますが、自身も将軍になる前の15歳の時に館林藩主になっています。2歳に比べればかなり年上ですが、それでもずいぶん若いですよね。その後、お兄さんの家綱が第4代将軍となりますが、家綱には後継ぎがいなかったため、次の将軍の最有力候補という立場になります。この頃に生まれたのが徳光で、父である綱吉が将軍になったため、館林藩主を2歳で継ぐことになったというわけです。

しかしこの徳光、あまり体は丈夫でなかったようで、父親である綱吉はことあるごとに心配していたようです。そこで徳光が3歳の頃に健康を祈願する儀式が盛大に行われ、それが庶民にも多大な影響を与えました。これが11月15日のことだったと言われているのです。

旧暦の15日は鬼宿日

また11月15日にそういった儀式が行われたのは、旧暦の15日が鬼宿日だったため、とも言われています。鬼宿日とはインドに源流を持つ二十八宿のうちの一つで、二十八宿とは天球を28に区切り、星の運行から運勢などを占うものでした。「鬼」と付いているとなんだか不吉にも思えますが、鬼宿とは「鬼が宿にいる」ことをあらわし、つまり鬼が外を出歩かないために安全な日であるとされ、二十八宿の中でも最もおめでたい日とされているのです。ちなみに仏教の開祖であるお釈迦様の誕生日も、この鬼宿日だったというエピソードがあります。

このようにとても縁起がいいとされる鬼宿日ですが、唯一結婚式の日取りには向かないとされています。何故かと言えば、先ほども説明したように鬼宿日は鬼が家にいる日。そして結婚は二人が同じ家に入る日でもあります。そこで、家で鬼と鉢合わせしてしまうかもしれない?ということで、あまり結婚には向かないとされているんですね。

千歳飴の由来

千歳飴

話は変わって、5月5日の子どもの日や3月3日のひな祭り、もっと言うならばクリスマスやハロウィンなどの行事と比べても、七五三は一体何をして何かを食べるものなのかということについて、いまいち知られていないところがありますよね。しかしそんな中でも、千歳飴は七五三を代表する食べ物として多くの人に馴染みがあると言えるのではないでしょうか。

ではこの千歳飴はどんな理由で七五三に食べられるようになったのか?というと、これまた諸説あります。伝わっているエピソードは主に三つあり、一つは江戸時代に浅草の飴売りだった七兵衛が、紅白の長細い飴を「千年飴」または「寿命糖」として売りはじめたというもの。二つ目は同じく江戸時代に、大阪の飴売りだった平野甚左衛門が江戸の浅草寺までやってきて、「千歳(せんざい)飴」として長寿を売りに商売をはじめたというもの。そして三つめが、やはり江戸時代頃に神田明神で売られていた「祝い飴」というものです。

それぞれ違いはありますが、どれにも共通しているのが江戸時代ということと、江戸の浅草から神田のあたりで売られていたということです。少なくともこの時代に同じような場所で似たものが売られていたというのは間違いないようですね。

千歳飴の意味

そして他にも共通しているのが、どれも細長く紅白に色分けされているということ。実は千歳飴の長さは現代でも「太さ15mm以内、長さ1m以内」とはっきり決められています。

細長さは寿命の長さをあらわし、飴の粘り強さには健やに成長してほしいという願いが込められているといいます。こうした糖分は江戸時代には庶民の手に届くように放っていたもののまだ貴重ではあり、健康維持にも大切な栄養素で、またその甘みはお祝い事を盛り上げるものとして、多くの人に喜ばれていたようです。

袋の図柄にも逸話が?

千歳飴と言えば、豪華できらびやかな袋も目を引きますよね。そこには「鶴と亀」「松竹梅」など色々なおめでたい図柄が描かれていますが、他にもあまり見慣れないおじいさんとおばあさんが描かれていることがあります。これは「高砂の尉と姥」と言われるもので、高砂神社の境内にある一本の根っこから二つの幹が生えている松がおじいさんとおばあさんに姿を変えて、夫婦の大切さを説いたという逸話から来ています。この夫婦は実はイザナギとイザナミという日本を生み出した最初の神様で、とても縁起がいいとされているんですね。

まとめ

このように、他の行事に比べると一般には具体的なことがあまり知られていない七五三ですが、知ると色々と興味深いエピソードがたくさんあります。少し興味が沸いて来たでしょうか?これを期に七五三のことをもっと知ってみると、もっと七五三を迎えるのが楽しみになるかもしれませんよ。

 

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