豊かな歴史を受け継ぐ。七五三と千歳飴にまつわる風習を知る。

豊かな歴史を受け継ぐ。七五三と千歳飴にまつわる風習を知る。

子育て中のご家庭では、一度は七五三について話をしたことがあるかもしれません。現代では、七五三の季節には写真スタジオや写真館での記念撮影や、神社で祈祷してもらい千歳飴を嬉しそうに持つシーンがよく見かけられます。

シーズン中の混雑を避けるため、前撮りや後撮りといったサービスを利用する家庭も増えており、ますます人気のある記念イベントとなっています。

子どもたちは華やかに着飾り、いつもとは違う凛とした雰囲気になります。しかし、かつては一般的なイベントではありませんでした。現代においては当たり前のように迎える七五三ですが、その起源はどのようなものだったのでしょうか。それはとても高貴な家柄のお話にまでさかのぼります。

あなたは、子どもの頃に手にした千歳飴の記憶を持っていますか?あの長い飴に込められた意味には、実は古くからの歴史があります。今回は、七五三の起源と千歳飴のはじまりについて紹介します。

七五三はいつから始まったの?

日本の七五三は、約1300年前の平安時代に、宮廷貴族の行事として始まったとされています。当時は非常に高貴な家庭で行われる行事であり、一般家庭には全く浸透していなかったとされています。現代で例えるなら、皇室で年間を通じて行われる行事に近いものと言えるでしょう。

しかし、江戸時代(1603〜1867)に入ると、日本の一般庶民の間に七五三の文化が徐々に浸透し始めました。18世紀に入ると、地方にも広がり、農村の風物詩として一般家庭にも取り入れられるようになりました。そして19世紀には、武家から一般庶民までが七五三を祝うようになり、日本人の大切な文化として定着していきました。

長い月日をかけて一般家庭に広がった七五三の歴史を振り返ると、平安時代から江戸時代まで800年以上という長い年月を経て、今日に至るまで続いている文化であることが分かります。

どうして七五三というイベントが出来たの?

古代には、成人の平均寿命が現代よりも短く、多くの子供たちが生まれ、成人になる前に亡くなってしまうことがよくありました。当時の医療技術も現代ほど発達しておらず、病気の原因も分からず、人々は無力感を感じながら、多くの人々が早くに亡くなっていきました。

平安時代(794〜1185)に入ると、人々は自分たちの子供たちが健康で元気に育ってほしいという願いが強くなり、1年ごとに「七五三」という行事が始まりました。七五三は、3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子の無病息災を願うものであり、この時期に病気や怪我をしなかったことが、無事に成長するために必要だとされていました。

また、無事に生き残った場合、次のステージに進むための重要な節目であったため、七五三を迎えた子供たちを称える行事でもありました。

江戸時代(1603〜1867)に入ると、七五三は武家や一般家庭にも広がり、多くの人々が、自分たちの子供たちの健やかな成長を祝うために七五三を行うようになりました。

このように、七五三は時代とともに変化をしてきましたが、現代では、3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子の成長を祝うイベントとして広く親しまれています。

なぜ11月15日にお祝いするの?

起源が古いイベントなだけに、これといった確かな由来は決められません。いつくか言い伝えとして残っている由来をご紹介します。

豊作を願う行事

大昔の日本では秋に作物の収穫が最盛期となる季節を迎えます。神様に、その実りが豊かであった事への感謝と来年も豊作となる願いを込めたお祈りの行事が行われていました。その大きなイベントの際にこども達の成長を願いお祝いしたという説が残っております。

徳川幕府がはじまり

徳川綱吉の長男である徳松は、1679年に生まれたが、体が弱かったと言われています。そこで、大人たちは11月15日に健康祈願をしたところ、徳松は元気を取り戻したとされます。この出来事にあやかろうと、一般の家庭でも11月15日にお祝いをする風習が広まったのです。

徳川幕府が11月15日を選んだ理由は、その年の「鬼宿日」にあたるからでした。鬼宿日は、「きしゅくにち」「きしゅくび」と読みます。これは、中国で紀元前1040年ごろから紀元前250年ごろにかけて天文学に使用されていた暦であり、日本に伝わりました。日本では「宿曜経」として知られています。

宿曜経には、鬼宿日とされる日がありますが、毎年変わります。この日は、鬼が宿に居るために出歩かないとされる日です。徳川幕府の人々は、お祝い事を鬼に邪魔されない縁起が良い日を選んだのでしょう。

千歳飴はいつから七五三で用意されるようになったのか

千歳飴の記録を辿っていくと、江戸時代の記録に残っています。

平野甚右衛門

1615年には、平野甚右衛門という商人がいます。彼は大阪で商売をしていましたが、江戸の浅草に行き、浅草寺で変わった飴を販売し始めました。この珍しい飴が、今の千歳飴の形になったと言われています。当時の読み方は「せんざいあめ」でした。

この飴は、縁起が良く長寿を連想させることから、お祝いの席で買う人が多かったようです。飴を作るときにどんなに伸ばしても千切れず、これを食べると長生きするという言い伝えがあり、お寺で人気があったようです。さらに、神様へのお参りの印にもなり、縁起だけでなく、災難除けのお守りとしても褒められました。

この飴は東京風飴として知られるようになり、一年中おやつとして買われるようになりました。現在でも神社のお菓子やお土産、お正月などのお祝い事で買われる方が多いようです。

浅草の七兵衛

次に残っている千歳飴の記録は、より現代に近いものです。

1600年代末から1700年代初めにかけて、商人の七兵衛が浅草で千歳飴を販売していました。七兵衛の千歳飴は、紅白の華やかなデザインで「千歳飴」と呼ばれ、縁起物として評判を呼びました。400年以上が経過した今でも、日本の文化に欠かせない存在となっています。

現在でもおなじみの千歳飴は、長い紙袋に入れられています。袋には、縁起物である鶴や亀、松竹梅のイラストが描かれています。

伝統的な千歳飴の原型はこの時期に作られましたが、現代の千歳飴の袋は、広く知られ、消費され、日本の文化や伝統を象徴するユニークなものとなっています。

この千歳飴の袋の文化的意義は、何世紀にもわたって受け継がれ、今でも世界中で楽しまれています。それは日本の歴史と文化の美しい証しであり、そのおいしさを堪能するすべての人に喜びと幸運をもたらすと言われています。

神田明神の浮世絵

千歳飴の文化は、浮世絵にも残されています。

江戸時代に現在の東京都千代田区にある神田明神を描いた浮世絵には、子供たちが千歳飴を手にする様子が描かれています。この飴は、「祝い飴」として神田明神で販売され、縁起を担ぐと考えられていたため、境内では大変な人気商品でした。

明治時代になると、カメラが日本に浸透し始め、神田明神の写真には境内で千歳飴が売られている様子が残されています。この写真が全国に広まると、千歳飴の人気は急上昇しました。ビジュアルと縁起の良さに人々は魅了されたようです。

現在、千歳飴は日本各地の風物詩として広く知られています。お祝いや喜びの象徴とされ、さまざまな場面で使用されています。

意外と知られていない千歳飴の食べ方

千歳飴は、その年齢に合わせた本数を食べるのが正しい食べ方のようです。例えば、3歳ならば3本です。袋には一律の本数が入っているため、この風習はあまり知られていないかもしれません。

千歳飴は長く作られているのは、長生きすることを願っているからです。そのため、千歳飴を折って食べることは絶対に避けてください。また、歩きながら食べると危険なので、大人が一緒に座って見守るようにしてください。

さいごに

古くは、七五三や千歳飴についてお話しました。

皆さんもご存知かもしれませんが、日本人が受け継いできた風習は、知れば知るほど魅力的です。

七五三は何百年も前から伝統的な行事で、日本全国で大きく祝われています。この行事は、子供の健康や幸せ、成長を祝うために行われます。

七五三には特定の象徴的な食べ物や伝統が関連付けられることもありますが、常に子供の節目を意味するもので、健康や幸福を願って祝います。

多くの家庭では、特別な儀式を行い、神々に子供の幸運と健康を祈願することがあります。それにより、七五三の知識や伝統的な風習は、先祖代々に受け継がれてきたのかもしれません。

七五三の行事を行う際には、お子様にこの文化について教えることも大切です。この素晴らしい日本の文化を後世に伝えていくことが、幸いです。